びっきこども基金運用リポート
皆様からびっきこども基金にお預かりした寄付金が、どのように運用されたかを具体的にご紹介致します。また、支援後に戴いたお手紙も併せてご紹介致します。
お礼の寄せ書きを頂きました。
(第7回U-15ジュニアバスケットボール大会出場の遠征費の一部を支援)
過去の記録 >>> 2018年 | 2017年 | 2016年 | 2015年 | 2014年 | 2013年 | 2012年 | 2011年
宮城ウイングスバスケットボールクラブからお礼の寄せ書き
宮城ウイングスバスケットボールクラブの子どもたちから支援に対してのお礼の寄せ書きを頂きました。
(第7回U-15ジュニアバスケットボール大会出場の遠征費の一部を支援)
福島しあわせ運べるように合唱団
支援先 : 福島しあわせ運べるように合唱団
支援内容 : 2019年3月 神戸絆つながりコンサート&学習会
- 神戸西灘小学校で福島の震災について学んでいる子供達との交流、福島の現状を伝える特別授業
- 人と防災未来センターや東遊園地(鎮魂の場)を中心に学習とコンサート
- 阪神淡路大震災当時の子どもたちがどのように立ち直りつつあるのかゲストティーチャーを招いて学習

活動報告
福島しあわせ運べるように合唱団
二本松第三中学校 村田 日和
震災がおこる時、私は託児所に居ました。先生たちの指示にしたがって外へ出ました。地面にひびが割れているのを見て小さいながらに想像をしました。
家にいる家族はひびの間に落ちていたらどうしようって、不安でしかたがなかったです。
お母さんが迎えに来ました。でもお姉ちゃんは先に自転車で帰っていたそうです。なので急いでお母さんと一緒にお姉ちゃんを迎えに家に向かいました。ですが、家に帰る途中にある橋が崩れていました。だから遠回りをして家に行きました。私はその間、ずっと泣いていました。お姉ちゃんが今ちゃんと生きてるかという気持ちで他になにも考えられませんでした。
家に着くとおじいちゃんおばあちゃんお姉ちゃんが外に出ていました。私は車の中でまだ泣いていました。お姉ちゃんが車の中に乗り込んで車は発進しました。何故かおじいちゃんとおばあちゃんは家にいるようでした。お姉ちゃんが隣に座りました。
安心して私はさらに泣きました。お姉ちゃん、お姉ちゃんと何回も呼びました。安心といってもまだ状況が分からなくてお姉ちゃんがいるという証拠をただ求めていました。ですがお母さんは運転中です。静かにしないと運転にししょうをきたします。そこで、お姉ちゃんは私を慰めようとしました。それからは覚えてません。
私はとにかく混乱していました。大人もそうだったと思います。私はえたいのしれないなにかということに恐怖していました。
二本松に避難して来てからでも不安がありました。ですが年々そんなことは忘れてしまっていました。小学校5年生の時、姉が合唱団に入りました。それがきっかけで私も合唱団に入りました。合唱団では沢山の震災について学びました。
そこで、しあわせ運べるようにという曲とであいました。
この曲は神戸の音楽教師の臼井真さんが阪神淡路大震災のとき作ったと聞いて、もっともっと気持ちを込めて歌いたいと思いました。それと同時に神戸に行って会いたいと思いました。
今、神戸の方は震災についてどう考えているのか、経験していない人達は語りついでゆくのかと、色々と疑問があります。
福島しあわせ運べるように合唱団
杉田小学校2年 萩原 凜
わたしは、ひがしにほんだいしんさいのときうまれたばかりでした。だから、しんさいのときのきおくはおぼえていません。
でもお母さんから「もうふにくるんでだっこしてまもってあげた。」と聞きました。そのほかにもうまれたばかりの私の体をあらうのに電気が止まっていてお風呂が入れなかったでのガスでお鍋に水を入れて何回も沸かしてためて体を洗ってくれたんだそうです。
スーパーやコンビニに行っても食べる物がほとんど売っていなかったし、ガソリンも半日近く並んでやっと少し入れらたと話をしていました。私はその話を聞いたとき「食べものも、電気もなかったし、つかなかったから大変だったんだなと思いました。だから今は、ガスも電気が普通についているのでこれが幸せなんだと分かりました。
おじちゃんはみんなの体を心配して、山形に避難しようとして家を借りましたが、直ぐに二本松に戻って来たと聞きました。4年前に病気で亡くなった時、私は三歳でよく覚えていませんが優しくて大好きだった記憶はずっとあります。
私はしあわせ運べるようにを歌う時にいつも思うことがあります、津波や地震で亡くなった人の分も自分の気持ちをとどけたいと思いをこめていつも歌っています。
だから来年で24年目になる兵庫県神戸市へ行ってわたしのあたたかい歌をとどけたいです。
福島しあわせ運べるように合唱団
日本大学東北高等学校 村田 天音
その時、私が見たものは、青い空でした。
小学校から自転車に乗って家に帰る途中の事です。いつも通りに友達と別れて一人で帰っていました。いつも通り、冬の田んぼを通って、いつも通り橋を渡って、その時は「いつも通り」なんて意識を一つもしてませんでしたが。
突然のことでした、めまいがしたのかと思い自転車を止めました。それから気づきました。地面がゆれてることに、当時8歳の私は、何も考えている余裕はありません、近くの電柱が倒れるかもしれないと思い、少し離れました。ゆれがおさまるまで、何もない、誰もいない風景に立ち尽くしていました。
どれくらいたったでしょう、ただ広がる青い空の下で、学校に戻るか、家に帰るかをぼんやりと考えていたのだと思います。ゆれがおさまるころには、家に帰る決断をしていました。
自転車をこぎ出して、見たものは川津波です。当時の私には、理解するにはあまりに幼く、ただ帰るという一心でした。
そこから、日常というものはありませんでした。いつもの崖はくずれ、道が防がれいました。
近所の人がそのくずれてきた岩をながめていました。何か会話をしたような、してないような、焦っていたので記憶はあいまいですが、そのくすれた土砂や岩石を自転車を少し持ち上げて通りました。地割れした道、あとかたもなく崩れた家、倒れた木、不安気な人、どんな風景を見ても、ただひたすら自転車で走りました。そうしなければいけないと当時の私は進み続けました。
家に着くととしょばあちゃん(ひいばあちゃん)が家のこたつに座っていました、テレビは画面が割れて暫くすると完全に映らなくなりました。
日本地図で、私のいた場所が黄色か赤になっていたのを覚えています。台所は皿がたおれていたりするのだろうと思い近づけませんでした。水色のランドセルをおろして、としょばあちゃんと外に出ました。家が、今まで見た家みたいに潰れるかもしれないからです。
こんなにも空は、いつも通りなのに、少し視線を落とすと非日常、あたり前じゃない異様な光景、少し寒かったのを覚えています。
おばあちゃんが家に帰ってきました、そしておじいちゃんも家に帰ってきました。二人が帰って来たのをみて、少しはだけ安心しました。でも、まだ完全に助かった訳じゃないと思いました。
おじいちゃんとおばあちゃんは交代で波を見に行きました。そして始まりましたいつもの口喧嘩が、この時は、「津波がくる」「こない」ということでケンカしてました。私はそこに、日常を垣間見ました。
お母さんが家に迎えに来ました、少しおじいちゃんたちと避難の仕方、合流先の話をしてから私だけを車に乗せて小学校に行きました。私が通った道とは別の道で、それからの記憶はありません。ただ雪がちらついてきたのを覚えています。部分的に覚えているのは、危機感のない兄と恐怖以外の理解できない妹と、おじいちゃんおばあちゃん、ひいおばあちゃんの安否の情報を少しでもつかもうと必死な母の姿―。おじいちゃん、おばあちゃん、としょばあちゃんとゆっくり話をしたのは私が最期でした。
震災後、初めて自分の土地を見ました、いつだったかは覚えていません、そこには、土台はありました。土台だけがありました。壁や屋根、倉庫、家と呼べる要素はなにもありません。
「しあわせ運べるように」を聞いて「傷ついた」という部分に差し掛かると、土台の風景がみえます。きっと「生まれ変わる」のでしょう。私の知っている小高とは違う小高に。
私は「福島しあわせ運べるように合唱団」に出会えて心の底から感謝しています。この合唱団に何度、心の傷を治してもらったか、何度、辛い時支えてもらったか、何度心を動かされたか、何度、しあわせを運んでもらったか。この合唱団だから私は歌い続けられるのです。この日常がどれほど幸せなことか、本当に嬉しいことだと思います。
私は、神戸に行きたいです。この合唱団の一員として、「しあわせはこべるように」がつくられた土地を、学びたいと思います。そこで生きる人を、残ったものを、残らなかったものを想いを願いを、祈りを、私が感じ取れる全てを経験として、歌により強く想いを込められるように。私は神戸を知りたいです。この肌で、の手で、この足で、この鼻で、この耳で、この目で。
福島しあわせ運べるように合唱団
二本松第三中学校 村田 日和
震災がおこる時、私は託児所に居ました。先生たちの指示にしたがって外へ出ました。地面にひびが割れているのを見て小さいながらに想像をしました。
家にいる家族はひびの間に落ちていたらどうしようって、不安でしかたがなかったです。
お母さんが迎えに来ました。でもお姉ちゃんは先に自転車で帰っていたそうです。なので急いでお母さんと一緒にお姉ちゃんを迎えに家に向かいました。ですが、家に帰る途中にある橋が崩れていました。だから遠回りをして家に行きました。私はその間、ずっと泣いていました。お姉ちゃんが今ちゃんと生きてるかという気持ちで他になにも考えられませんでした。
家に着くとおじいちゃんおばあちゃんお姉ちゃんが外に出ていました。私は車の中でまだ泣いていました。お姉ちゃんが車の中に乗り込んで車は発進しました。何故かおじいちゃんとおばあちゃんは家にいるようでした。お姉ちゃんが隣に座りました。
安心して私はさらに泣きました。お姉ちゃん、お姉ちゃんと何回も呼びました。安心といってもまだ状況が分からなくてお姉ちゃんがいるという証拠をただ求めていました。ですがお母さんは運転中です。静かにしないと運転にししょうをきたします。そこで、お姉ちゃんは私を慰めようとしました。それからは覚えてません。
私はとにかく混乱していました。大人もそうだったと思います。私はえたいのしれないなにかということに恐怖していました。
二本松に避難して来てからでも不安がありました。ですが年々そんなことは忘れてしまっていました。小学校5年生の時、姉が合唱団に入りました。それがきっかけで私も合唱団に入りました。合唱団では沢山の震災について学びました。
そこで、しあわせ運べるようにという曲とであいました。
この曲は神戸の音楽教師の臼井真さんが阪神淡路大震災のとき作ったと聞いて、もっともっと気持ちを込めて歌いたいと思いました。それと同時に神戸に行って会いたいと思いました。
今、神戸の方は震災についてどう考えているのか、経験していない人達は語りついでゆくのかと、色々と疑問があります。
福島しあわせ運べるように合唱団
杉田小学校2年 萩原 凜
わたしは、ひがしにほんだいしんさいのときうまれたばかりでした。だから、しんさいのときのきおくはおぼえていません。
でもお母さんから「もうふにくるんでだっこしてまもってあげた。」と聞きました。そのほかにもうまれたばかりの私の体をあらうのに電気が止まっていてお風呂が入れなかったでのガスでお鍋に水を入れて何回も沸かしてためて体を洗ってくれたんだそうです。
スーパーやコンビニに行っても食べる物がほとんど売っていなかったし、ガソリンも半日近く並んでやっと少し入れらたと話をしていました。私はその話を聞いたとき「食べものも、電気もなかったし、つかなかったから大変だったんだなと思いました。だから今は、ガスも電気が普通についているのでこれが幸せなんだと分かりました。
おじちゃんはみんなの体を心配して、山形に避難しようとして家を借りましたが、直ぐに二本松に戻って来たと聞きました。4年前に病気で亡くなった時、私は三歳でよく覚えていませんが優しくて大好きだった記憶はずっとあります。
私はしあわせ運べるようにを歌う時にいつも思うことがあります、津波や地震で亡くなった人の分も自分の気持ちをとどけたいと思いをこめていつも歌っています。
だから来年で24年目になる兵庫県神戸市へ行ってわたしのあたたかい歌をとどけたいです。
福島しあわせ運べるように合唱団
日本大学東北高等学校 村田 天音
その時、私が見たものは、青い空でした。
小学校から自転車に乗って家に帰る途中の事です。いつも通りに友達と別れて一人で帰っていました。いつも通り、冬の田んぼを通って、いつも通り橋を渡って、その時は「いつも通り」なんて意識を一つもしてませんでしたが。
突然のことでした、めまいがしたのかと思い自転車を止めました。それから気づきました。地面がゆれてることに、当時8歳の私は、何も考えている余裕はありません、近くの電柱が倒れるかもしれないと思い、少し離れました。ゆれがおさまるまで、何もない、誰もいない風景に立ち尽くしていました。
どれくらいたったでしょう、ただ広がる青い空の下で、学校に戻るか、家に帰るかをぼんやりと考えていたのだと思います。ゆれがおさまるころには、家に帰る決断をしていました。
自転車をこぎ出して、見たものは川津波です。当時の私には、理解するにはあまりに幼く、ただ帰るという一心でした。
そこから、日常というものはありませんでした。いつもの崖はくずれ、道が防がれいました。
近所の人がそのくずれてきた岩をながめていました。何か会話をしたような、してないような、焦っていたので記憶はあいまいですが、そのくすれた土砂や岩石を自転車を少し持ち上げて通りました。地割れした道、あとかたもなく崩れた家、倒れた木、不安気な人、どんな風景を見ても、ただひたすら自転車で走りました。そうしなければいけないと当時の私は進み続けました。
家に着くととしょばあちゃん(ひいばあちゃん)が家のこたつに座っていました、テレビは画面が割れて暫くすると完全に映らなくなりました。
日本地図で、私のいた場所が黄色か赤になっていたのを覚えています。台所は皿がたおれていたりするのだろうと思い近づけませんでした。水色のランドセルをおろして、としょばあちゃんと外に出ました。家が、今まで見た家みたいに潰れるかもしれないからです。
こんなにも空は、いつも通りなのに、少し視線を落とすと非日常、あたり前じゃない異様な光景、少し寒かったのを覚えています。
おばあちゃんが家に帰ってきました、そしておじいちゃんも家に帰ってきました。二人が帰って来たのをみて、少しはだけ安心しました。でも、まだ完全に助かった訳じゃないと思いました。
おじいちゃんとおばあちゃんは交代で波を見に行きました。そして始まりましたいつもの口喧嘩が、この時は、「津波がくる」「こない」ということでケンカしてました。私はそこに、日常を垣間見ました。
お母さんが家に迎えに来ました、少しおじいちゃんたちと避難の仕方、合流先の話をしてから私だけを車に乗せて小学校に行きました。私が通った道とは別の道で、それからの記憶はありません。ただ雪がちらついてきたのを覚えています。部分的に覚えているのは、危機感のない兄と恐怖以外の理解できない妹と、おじいちゃんおばあちゃん、ひいおばあちゃんの安否の情報を少しでもつかもうと必死な母の姿―。おじいちゃん、おばあちゃん、としょばあちゃんとゆっくり話をしたのは私が最期でした。
震災後、初めて自分の土地を見ました、いつだったかは覚えていません、そこには、土台はありました。土台だけがありました。壁や屋根、倉庫、家と呼べる要素はなにもありません。
「しあわせ運べるように」を聞いて「傷ついた」という部分に差し掛かると、土台の風景がみえます。きっと「生まれ変わる」のでしょう。私の知っている小高とは違う小高に。
私は「福島しあわせ運べるように合唱団」に出会えて心の底から感謝しています。この合唱団に何度、心の傷を治してもらったか、何度、辛い時支えてもらったか、何度心を動かされたか、何度、しあわせを運んでもらったか。この合唱団だから私は歌い続けられるのです。この日常がどれほど幸せなことか、本当に嬉しいことだと思います。
私は、神戸に行きたいです。この合唱団の一員として、「しあわせはこべるように」がつくられた土地を、学びたいと思います。そこで生きる人を、残ったものを、残らなかったものを想いを願いを、祈りを、私が感じ取れる全てを経験として、歌により強く想いを込められるように。私は神戸を知りたいです。この肌で、の手で、この足で、この鼻で、この耳で、この目で。
宮城ウイングスバスケットボールクラブ
支援先 : 宮城ウイングスバスケットボールクラブ
支援内容 : 第7回U-15ジュニアバスケットボール大会出場遠征費一部
(2019年1月4日~1月6日まで 愛知県で行われます)

活動報告
宮城ウイングス男子代表
この度は、みやぎびっきの会様をはじめ、多くの方々に支援していただき、
本当にありがとうございます。
まず初めに、私たち宮城ウイングスは男子11名、女子14名で大郷町を拠点として様々な地域から集まり、日々の練習に励んでいます。私たちはバスケットボールのクラブチームですが、競技だけでなく、精神面や生活面など他にも多くのことを学んでいます。
次に、私たちが毎日の練習で心掛けていることは、チームの雰囲気が向上するように、一人一人が精一杯の声を出すことです。バスケットボールはチームスポーツなので、コミュニケーションが不可欠です。ですので、私たちは自分自身から発言し合い、より良いチームにしていくために頑張っています。
次に、私たちは決してバスケットボールが上手なチームとは言えませんが、最初から相手チームに気持ちから負けることはなく、最後まで諦めずにボールを追いかける努力をしています。また、チャレンジ精神を忘れず、練習や試合で多くのことを挑戦してきました。
第7回U-15ジュニアバスケットボールゲーム大会では、私たちを今まで支えてきてくれた家族の方々や指導してくださったコーチの方々に対しての恩返しになるように、今までの練習の成果をしっかりと試合に繋げたいと思います。
最後に、みやぎびっきの会様からの応援に応えられるように、精一杯頑張ってきます。たくさんのご支援どうもありがとうございました。
宮城ウイングス女子代表
この度は、第7回U-15ジャパンクラブバスケットボールゲームへの出場にあたり、宮城ウイングスへの多大なるご支援を頂きありがとうございます。
私たち宮城ウイングスは、県内各地から本気でバスケットボールに取り組みたい仲間たちが集まったクラブチームです。男子11人、女子14人、上は中学3年生から下は小学5年生と幅広い年齢で活動しています。
先輩方が卒業して新体制になったばかりの頃、地域の中学校との練習試合でさえ勝てずに、悩む日々がありました。その悔しさからチーム皆が「絶対に勝ちたい、全国大会に行きたい」と気持ちを一つにしてからは、辛い練習も苦しい時期も、支え合って越えることができました。
私たちのチームはとにかく走り、とにかくボールを追いかける、勝つことへの執着心を持ったチームです。東北予選会でも、全国への切符をかけた試合で、残り14秒のスリーポイントで逆転し、1点差で勝利を手にしました。走ること、体力だけはどこのチームにもまけません。
全国大会では、激しいディフェンスと、展開の速いオフェンスで、各地で勝ち抜いてきた強豪チームを相手に、ハイレベルなゲームを目指して一戦一戦に全力を尽くしてきます。
最後に、このご支援に応えるべく、宮城ウイングス一同切磋琢磨して参ります。
宮城ウイングス男子代表
この度は、みやぎびっきの会様をはじめ、多くの方々に支援していただき、
本当にありがとうございます。
まず初めに、私たち宮城ウイングスは男子11名、女子14名で大郷町を拠点として様々な地域から集まり、日々の練習に励んでいます。私たちはバスケットボールのクラブチームですが、競技だけでなく、精神面や生活面など他にも多くのことを学んでいます。
次に、私たちが毎日の練習で心掛けていることは、チームの雰囲気が向上するように、一人一人が精一杯の声を出すことです。バスケットボールはチームスポーツなので、コミュニケーションが不可欠です。ですので、私たちは自分自身から発言し合い、より良いチームにしていくために頑張っています。
次に、私たちは決してバスケットボールが上手なチームとは言えませんが、最初から相手チームに気持ちから負けることはなく、最後まで諦めずにボールを追いかける努力をしています。また、チャレンジ精神を忘れず、練習や試合で多くのことを挑戦してきました。
第7回U-15ジュニアバスケットボールゲーム大会では、私たちを今まで支えてきてくれた家族の方々や指導してくださったコーチの方々に対しての恩返しになるように、今までの練習の成果をしっかりと試合に繋げたいと思います。
最後に、みやぎびっきの会様からの応援に応えられるように、精一杯頑張ってきます。たくさんのご支援どうもありがとうございました。
宮城ウイングス女子代表
この度は、第7回U-15ジャパンクラブバスケットボールゲームへの出場にあたり、宮城ウイングスへの多大なるご支援を頂きありがとうございます。
私たち宮城ウイングスは、県内各地から本気でバスケットボールに取り組みたい仲間たちが集まったクラブチームです。男子11人、女子14人、上は中学3年生から下は小学5年生と幅広い年齢で活動しています。
先輩方が卒業して新体制になったばかりの頃、地域の中学校との練習試合でさえ勝てずに、悩む日々がありました。その悔しさからチーム皆が「絶対に勝ちたい、全国大会に行きたい」と気持ちを一つにしてからは、辛い練習も苦しい時期も、支え合って越えることができました。
私たちのチームはとにかく走り、とにかくボールを追いかける、勝つことへの執着心を持ったチームです。東北予選会でも、全国への切符をかけた試合で、残り14秒のスリーポイントで逆転し、1点差で勝利を手にしました。走ること、体力だけはどこのチームにもまけません。
全国大会では、激しいディフェンスと、展開の速いオフェンスで、各地で勝ち抜いてきた強豪チームを相手に、ハイレベルなゲームを目指して一戦一戦に全力を尽くしてきます。
最後に、このご支援に応えるべく、宮城ウイングス一同切磋琢磨して参ります。